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2022年2月27日

“プロゴルファー猿”に影響され超おもしろ人生を歩んでいるティ―チングプロ鎌田崇司さん

2月27日のゲストは、リスナーさん推薦のゴルフの先生です。日本プロゴルフ協会公認 鎌田ゴルフスクールティ―チングプロの鎌田崇司(かまだ たかし)さん49歳です。血液型A型で乙女座。推薦者のおっしゃるとおり、明るくて優しい感じの方です。

鎌田崇司さん

鎌田さんは、秋田市上新城で昭和47年9月23日に誕生しました。小学校2年の時に野球部に入部。テレビで「プロゴルファー猿」のアニメ番組が始まりゴルフにも興味を持つようになります。お父さんは大のゴルフ好きで、日曜日には、ほぼ毎週ゴルフをしに出かけていたそうです。ゴルフで良い成績をとった日は、景品をたくさん持って来て、普段、怖いお父さんが、ものすごく優しくなりニコニコ顔で機嫌が良くなるので、子ども心に「ゴルフってそんなに楽しいものなのか!」って思っていたそうです。「プロゴルファー猿」は、柿の木を削ってゴルフクラブを作っていたことから、自分でも作ってみようと自分の家にある柿の木を切ろうとしていた時、おばあさんに見つかってものすごくられ諦めたそうです。

それではと、こっそりお父さんの車のトランクをあけてゴルフクラブを借り練習していたそうです。野球のボールよりゴルフのほうが、倍以上も遠くまで飛ぶので、とても面白かったそうです。自分のゴルフクラブを手に入れたのは中学生の時、ホームセンターで見つけた1本980円のゴルフクラブを自分のおこずかいで買ったそうです。練習は、家の裏山の木と木の間にネットを張り、そのネットにむけてボールを打っていたそうですよ。(うーん、それまでして練習するって、子供のころから、よっぽどゴルフが好きだったんですね。)

高校受験に失敗して予備校時代、ゴルフにはまって、それを見ていたお父さんが「そんなにゴルフがしたいのか?」と聞かれ「やりたい!」と答えると、「それならしっかりと頑張りなさい」とゴルフクラブのセットを買ってくれたんだそうです。(そんなお父さん聞いた事ことがありません。大のゴルフ好きのお父さん、面白いし、すばらしいですね。)鎌田さんからのリクエストは、気合いが入るロッキーのテーマでした。勉強などでストレスがたまった時、いつもこの曲を聴きながらゴルフのための筋トレをしていたそうです。こういう方法で勉強した結果、次の年には秋田県立秋田南高校に合格。高校に入ってからは、勉強もしっかりしていたそうですが放課後、学校の部活には入らずゴルフ練習場に通い本格的にゴルフの練習に取り組み、高校2年の時にジュニアの大会で優勝。

鎌田崇司さん

その優勝結果で学校から推薦を受け、日本を代表するプロゴルファーをたくさん生み出している日本大学のゴルフ部に進みます。そこから、まだまだ面白い鎌田崇司さんのゴルフ人生が続きます。坂田信弘プロのお弟子さんになったり、アメリカに渡ったり。鎌田さんには、近いうちに又、この続きをお話頂く予定です。お楽しみに。

鎌田崇司さん

2022年2月20日

山崎不士夫さんの名前には、世界平和を願うお父様の想いが込められていました。

2月20日のゲストは、秋田銀行で店長などを務め、現在は株式会社 農友代表取締役山崎不士夫(ふじお)さん67歳においで頂きました。

山崎不士夫さん

山崎さんは17年前に秋田銀行を定年退職されましたが、秋田銀行時代、よく秋田放送にいらしていた方です。いつも穏やかでやさしいお人柄なのでお話がしやすく、退職後も時々電話をしたり年賀状のやり取りなどをしていたのですが、今年の年賀状をよく見ていたら、大変なことに気が付きました。それは、山崎さんのお名前。不士夫さんの漢字を長年にわたり不二夫さんと書いて出していたのです。“じ”の字を間違えていたのです。今さら恥ずかしいけれど、お詫びのお電話をしたところ、山崎さんは相変わらず穏やかな声で
「全然大丈夫ですよ。ほとんどの方が間違って書いてきますし、気にしていませんから」という答え。しかも、自分自身がこの字が嫌で「なんでこんな字にしたんだ?」と親を恨んだこともあったということでした。小中学校の卒業名簿や資料にも間違ったまま載っているほどで、それについて、訂正することもしなかったという山崎さん。不という字は不可能や不吉などに使う否定する時に使う字。士という字は、つわもの・武士などに使う漢字。不と士の組み合わせた響きがとても嫌だったそうです。調べてみても、日本中どこをさがしても、無かったそうです。

山崎不士夫さん

その疑問、不満が解決したのは、義理の妹さん(中学校の国語の教師をしていた、弟さんのお嫁さん)のおかげなんだそうです。名前を付けたのは20数年前に亡くなったお父様。亡くなる前に妹さんにふと語った内容は、お父様は8年間も青春時代を戦争に取られ、満州・シベリアで過ごし、特にシベリアでは氷点下40度・50度のなかで森林伐採の仕事をさせられ、たくさんの人が亡くなるのを見てきたこと。やっとの思いで日本に帰って来て、結婚し最初に産まれた子が男の子・山崎さん。士という字は、兵士・武士のこと。自分の子には、絶対に自分と同じような思いをさせたくない。「兵士には絶対になるな!」という意味を込めて不士夫という名前をつけたそうです。妹さんからその話を聞いた後は、あんなに嫌いだった名前にむしろ、誇りを持つようになったそうです。お父様は、戦争犠牲者だったのですね。きっとあまりにもひどい過酷な状況だったことから人に話すことも出来なかったんでしょうね。

山崎不士夫さん

お父様が願ったように、山崎さんは今、幸せな落ち着いた生活を送っていらっしゃいます。
お父様と同じように仕事熱心で、秋田銀行時代は真面目に仕事に取り組み、大好きな音楽を楽しむことも出来ませんでした。「農友」のお仕事をするようになってからは、農家の皆さんのご苦労を見て、お米一粒も無駄にできないし食の大切さを感じているそうです。
新型コロナが落ち着いたら、ずっと行きたかった海外の美術館での絵画鑑賞や音楽を追求してみたり、心のビタミンを入れながら、まだ色々したい事が山ほどあるそうです。好きな事をするにはやっぱり、健康第一。奥様に「やりたい事やらせてもらってありがとう」とおっしゃいました。終始穏やかで、にこやかに話された山崎さんでした。

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