【リレーブログ】会いたい!
誰にでも「懐かしのあの人」っていますよね
わたしにとっての「懐かしのあの人」は、
かつて秋田でお世話になった小中高、そして塾や習い事を含む先生たちです
ふるさとでこういう仕事をしていますと
嬉しいことに、取材などで「恩師」に会うことが多々あります
たとえば
華やかな女子高生活を謳歌した秋田北高時代
あの頃の思い出には、たくさんの先生が浮かびます
とにかく優しくて、怒った顔を一度も見たことがない書道のG先生
(おさむアナが取材先でお会いしたんです)
お写真が見当たらなかったのですが
毎年秋の高校駅伝の取材でよく顔をあわせる
陸上部顧問のI先生や
つい先日には
剣道部を毎年インハイに導いていたT先生にも会えました
男鹿で校長先生をしてらっしゃいました
そうそう、中学生時代の恩師にもよく会います
いまはわたしの義理の母校(※母校が閉校し、統合した先の学校を修アナがこう呼びました。わたしも気に入って使っている呼び方です)の校長先生になっていて
中学生への職業講演として、学校に招いてくれました
(講演会写真)
ほかにも
小学校時代の用務員さんはいまだにわたしを覚えてくれているし
私宛にハガキを出して応援してくれた先生もいます
中学生時代の塾の先生も
ひとづてにではありますが「良子わたしの教え子なのー」と話題にしてくれていると聞きました
嬉しいですね
そして実はこの夏…
せきむかいが最も恐れていた、
高校時代の放送委員会顧問の先生に会う予定があるのです
ABSが毎年開いている、高校放送部&放送委員会向けの講習会があります
そこで 今年 お会いするのです
何を隠そう、わたしも当時参加していた講習会です
そう わたしは
当時 高校放送界の強豪と言われた北高放送委員会に所属していて
委員とは名ばかりの
熱血運動部のような活動をしていたのです
たとえば
県大会前の合宿 なんてのがありましてね
学校に泊まり込みで、読みの練習をしたり
作品の編集をしたりしていたのです
それはもう・・・日付が変わったあとまで取り組むこともありました…
今でも忘れられないのは
合宿中、数学の授業でうとうと眠ってしまった我々放送委員を見て
先生が放ったひとことです
「まあ…放送委員は…今は仕方ないか…」
なんと居眠りが許されました いいの??
そんな厳しい3年間を指導してくれたのが
大恩師 歴史担当のH先生です
当時の委員の間では、「女帝」の愛称がついていました
(※もちろんご本人の前でも呼んでいます)
(※それを許してくれるユーモアのある先生なのです)
(※厳しいけど)
H先生、15年以上前
わたしが書いた大会向けのアナウンス原稿に
大きく赤ペンでバツを書かれ続けたあの日から
せきむかいはどれだけ成長したでしょうか
18年前、高校に入学して初めて書いたアナウンス原稿は
「教室の窓を覆うのがカーテンではなくブラインドだ!
秋田市ってなんてオシャレなの!」という驚きから生まれましたし
わたしが生まれた男鹿のとある集落が、男鹿なのに珍しく
大晦日にナマハゲが来ないと知った先生が
「あんたそれを原稿に書きなさいよ」とアドバイスをくれたこともありました
いろんな原稿を書いては
大きなバツがつきましたね
わたしは今も
あの原稿の最後の一文を覚えています
「今年の大晦日も、ナマハゲが来ない静かな夜になりそうです」
忘れないものですね
H先生、
わたしと、同級生の放送委員 星子ちゃん(※AKT八代星子アナウンサー)は
なんと ともにふるさとでアナウンサーになりました
きっと驚いていますよね
我々がいちばん驚いています
学校は違いましたが、放送コンテストの度に顔を合わせ
学校の垣根を越えてともに夜中まで大騒ぎしていた
同い年の本荘の栞ちゃん(※NHK高野栞アナウンサー)も
秋田でアナウンサーをやってます
我々 あの頃とまったく変わらず そのままです
今のせきむかいがあるのは
ひとえに
堀井先生のあの日の厳しい指導があったおかげです
あ 名前いっちゃった まぁいいか
堀井先生
来月、久しぶりにお会いできることを楽しみにしています
お手柔らかにお願いします
最後に
このブログをどうか堀井先生がご覧になりませんことを願って今回の原稿を締めますね
写真がほとんどなくて文字ばかりですみません
かしこ
さて リレーブログ お次は
先生から大きなバツをもらったことはないでしょう
あるのかな?あるのなら何でバツをもらったのか知りたいな~
かもんぬこと 鴨下アナです お楽しみに~