【リレーブログ】もしも
11月のテーマは「もしも」です。
小学校の時に校内放送でアナウンスの面白さにはまりこんでしまい、「アナウンサーになれたらいいなあ」と思い続けて、62歳の今までずっとこの仕事を続けているのですが、もしもアナウンサーにならなかったら、何をして暮らしていただろうと思うことが、たまにあります。
子どもはいろいろ「野球選手になりたい」とか「ケーキ屋さん」とか、奔放な空想に浸るもんですよね。
私の場合、幼少の頃から、体を動かすこと全般が不得意だったので、スポーツ選手になりたいなどという、身分不相応なことは、これっぽちも思いませんでした。
昭和時代の男の子は、だいたい自動車に興味を持つようになるもので、「タクシーの運転手さんになったら、ずっと車に乗っていられる」と思っていたこともあったのです。
苦労の多い仕事だということは、大人になってから知りました。
ではずっと、アナウンサー志望ひとすじだったかと言えば、そうでもなくて、道がそれたこともありました。
小学校の校内放送で、かける曲選びをしているうちに音楽がおもしろくなって、中学校では吹奏楽部に入り、トランペットを担当しました。
ところが。
私は、楽譜が全然読めなかったのです。四分音符(♩)と八分音符(♪)の区別もついていませんでした。
それでよく、楽器やろうとしていたもんだと、当時の自分の度胸にあきれますが、先輩がていねいに教えてくれたこともあって、夏休み明けくらいには、なんとか楽譜が読めるようになっていました。
それまで読めなかった楽譜が理解できるようになり、音楽がガゼンおもしろくなってきたのです。
「テレビで見ている歌謡曲も、レコードで聞くクラシックも、音符と楽譜でみんな表現できるのか!」
こういう当たり前のことに気づいたのが中学1年。遅いにもほどがありますが、そこからはずみがついて「作曲なんかできたらいいなあ」とまで思うようになりました。
中1の冬休みには、五線紙を買って、思いついた旋律を書きとめていました。
楽譜が読めなかったことでおわかりのように、私は音楽とは無縁の暮らしでしたから、家にピアノもなかったので、息を吹き込んで「プップー」と鳴らす鍵盤ハーモニカを親に買ってもらいました。
全くの独学で曲を書くようになったんですが、そのうち、身分不相応な願いがムクムクと頭をもたげてきました。
「音楽大学で作曲を専攻できないかなあ」
その気になって調べてみると、音楽大学というのは、作曲でも声楽でも、バイオリンでもトランペットでも、入学試験にピアノがあるんですね。
ピアノを弾いたことのない私は、ここでストップしました。
田村修アナウンサーのように、子どもの頃からピアノを習っていたのなら、また違っていたのでしょうが……
好きな音楽は趣味、アナウンサーを仕事にして約40年経ちました。
音楽で食っていくというのは大変なことで、方向転換しといてよかったとは思いますが、アマチュアながら音楽仲間が多数できて、音楽を続けてきてよかったなと、いま思います。
お待たせしました。
次は酒井さんです。
どんな「もしも」が出てくるか?