【戦後80年】大仙市の高校生の大きな決断 太平洋戦争の激戦地を訪れ肌で感じたこととは 約1万人の日本兵が犠牲になった小さな島国の今

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秋田 2025.09.05 18:02

終戦から80年の節目を迎えた先月、大仙市の高校生が海を渡り、太平洋戦争の激戦地を訪れました。

訪れたのは、約1万人の日本兵が犠牲になったといわれる小さな島国です。

戦争の記憶と平和の尊さを次の世代につなぐために。現地を訪れた生徒を取材しました。

■教科書で見る戦争、初めて聞く戦争体験者の生の声

ガイド
「アメリカはこの水陸両用、LVTアームタンクを300以上 持ってきてるわけですね。時速10キロ、ボート機能。そのまま山の中まで入っていける」

太平洋戦争の激戦地のひとつ、西太平洋に浮かぶパラオ共和国のペリリュー島です。

終戦から80年の時を経た今も当時の痕跡が色濃く残されています。

この映像を撮影したのが、大仙市の高校1年生 久米川莉穏さんです。

15歳の久米川さんにとって、教科書で見る「文字」と「写真」が主な情報源だった戦争。

久米川莉穏さん
「中学校の時はこの写真が一番印象に残っていて、どれくらいひどかったのかというのが映し出されている写真だと思うので、一番印象に残っています」

去年亡くなった久米川さんの祖父は3歳で終戦を迎えました。

しかし、戦争の記憶はなく、これまで身近な人から当時の話を聞いたことはありません。

久米川莉穏さん
「家族で広島に旅行に行ったときに原爆ドーム見て、 それが小さいときだったんですけどいまだに記憶に残っていて、そこでもっと平和について勉強してみたいなって思ったので」

戦争を経験した人の生の声を聞いてみたい。

久米川さんはこの夏、秋田市で行われた講話会に足を運びました。

講師を務めたのは、長崎で被爆した男性です。

長崎被爆者 橋本富太郎さん
「長崎原爆で秒速440mの風が吹いたといわれます、爆心地付近」「11時2分にぴかっとした瞬間、そこに3,000度から4,000の熱がうわーっときます」

久米川莉穏さん
「被爆直後の症状が、爆発から3秒くらいで地上を覆ったっていうのとか、4キロくらい離れてたとしても やけどをしたりとか、そのせいで火災が起きたりとか」「被爆者の方が涙目になってたりするのを見ると、すごい怖かったなっていうのが 自分にも伝わってきて…うん。 体験したわけじゃないけどつらい思いはありました」

■戦後80年の夏 教科書に記されていない海外の激戦地へ

終戦から80年。久米川さんは、大きな決断をします。

久米川莉穏さん
「パラオ共和国のペリリュー島という島に行きます」

参加を決めたのは、戦地を巡るフィールドワーク。

日本青年会議所が企画したもので太平洋戦争の激戦地の1つ、ペリリュー島を4日間訪れます。

久米川莉穏さん
「地図でいうと多分この辺りです。(教科書には)載らないです」

太平洋戦争末期の1944年、わずか2か月余りで約1万人の日本兵が犠牲になったといわれるペリリュー島の戦い。

久米川さんが学んだ教科書に、その歴史は記されていませんでした。

久米川莉穏さん
「ちょっと怖いなっていう、緊張感ある場所だと思うので、 そこで得られるものは多いと思います」

時の流れとともに戦争の記憶や痕跡が失われつつある日本。

海外の激戦地は今どうなっているのか。

■肌で感じた激戦地の今 戦争の記憶と平和の尊さを次の世代につなぐために

久米川莉穏さん
「今から成田空港を出発して、パラオ共和国にいってきます」

フィールドワークには、久米川さんを含め、全国から高校生と大学生約20人が参加しました。

ガイド
「あれ見てわかりますか、真ん中に大きな穴が開いています。 アメリカが当時主流の爆撃機B24、大きな飛行機から800キロ爆弾、大きな爆弾を 投下して撃破してることが分かります」

旧日本海軍の司令部があった建物です。

管制塔として通信室を備えていたため集中的な攻撃を受けました。

帰国から3日後。

久米川さんが肌で感じた激戦地の今とは。

久米川莉穏さん
「一番最初に博物館に行ったんですけど、そこでは写真があったりとか実際に弾とかもあったりして、 爆弾も置かれてたりしたので、 それを生で見ることができてその大きさとか銃の重さとか、 そこはすごく自分の中では大きいものになった」
「美しい自然が多くあったんですけど、その中にぽつんと一個だけ戦車が置かれているのを見ると、 そこだけ雰囲気が全くガラリとかわって」
「人に広めることがすごく大事だと思っていて。ガイドさんもペリリュー島の戦いっていうのは知名度が低いとおっしゃっていたので。一人でも多くの人に伝えたいな っていうのと、自分自身でもインターネット活用したりとか 自分がでできる最大限のことを進めていきたい」

戦争の記憶と平和の尊さを次の世代につなぐために。

久米川さんは今後、自分と同じ世代の人を中心に、戦争の悲惨さを伝える活動に取り組むことにしています。