【戦後80年】家族の戦争体験に触れる~父親の軍用カバン #戦争の記憶
■戦後80年の節目に…整理を始めた父のカバン 入っていたものは
秋田大学医学部附属病院の近くにある住宅地。
半田實さん
「父親が軍隊にいた時の資料です、中に写真とかいろいろ入ってます」
「母親が亡くなった時に私が預かって持ってきたということで、それ以来あまりよく見たことがないです」
終戦の翌年に生まれた半田實さん78歳です。
戦後80年の節目に思い立ち、2歳上の兄・祐毅さんとともに父・幸三さんのカバンの整理を始めました。
入っていたのは幸三さんが軍隊にいたころの写真や、ふるさとで帰りを待つ家族に宛てた手紙。
それに、戦地での活躍を祈って家族や友人が寄せ書きした日章旗などです。
戦時中に幸三さんを支えた数々の形見が大切にしまってありました。
■父親の記憶
由利本荘市の旧鳥海村にある水力発電所の所長を務めていた幸三さん。
29歳で入隊して満州などの戦地に2度にわたって派遣され、中隊長として指揮にあたりました。
終戦時の階級は陸軍大尉です。
幸三さんには5人の子どもがいましたが残っているのは終戦の前の年に生まれた祐毅さんと末っ子の半田さんだけで、高齢ですでに他界した3人にも戦争の話はしていなかったといいます。
幸三さんが胃の病気で49歳で亡くなった時は、半田さんと祐毅さんはそれぞれ10歳と12歳です。
半田祐毅さん
「姿勢がよかったですよねやっぱり、いつも正座してぴしっとしてましたし立ち振る舞いっていいますか、やはりそういうものに対しては、やはり失うことはなかったんじゃないですかね気持ちの上では、ですからあんまり戦争のことなんかもあまり話してくれなかったし」
半田實さん
「写真ではあの軍事訓練とかいろいろあって、銃剣持ったり大砲登ったり、そういうのやっていたなっていう、ちょっとなんか想像と離れてるっていうか、実際の父親と離れたような感じはけっこうしました、写真を見ながら」
写真はどこで誰が撮ったのか、わかっていません。
■手紙に記された父の思い
貴重な資料の背景がわかれば、戦争の記憶をより深く伝えることができます。
ただ、当時の検閲が厳しかったためか家族に送った手紙にも戦地のことがわかる内容は一切書かれていませんでした。
「子どもたちはだいぶ大きくなったろう。巌は小さかったから私をわからぬだろう」
巌さんは3番目の子どもで半田さんたちの兄にあたります。
手紙にしたためられていたのはほとんどが家族を気にかける言葉でした。
当時は書くことができなかった戦争の惨状。
終戦から時を経て子どもたちが大人になってから伝える際に、写真や手紙は、記憶を呼び起こす重要な役割を果たします。
半田實さん
「父親も伝えたいことはたぶんあったと思うけど我々も聞きたいことがたぶんいろいろ出てきたと思うので、それが出来なかったのが非常に残念というか、こういう資料にある話を聞いてみたかったなって生の話ね」
家族を思う父の心に触れるきっかけをくれたカバン。
これまでしっかりとは話してこなかった父の戦争の経験を子どもに伝えたいという気持ちが、半田さんに芽生えました。
半田實さん
「たぶんこれ見たことない、どんな反応するか」
「いまいいチャンスだと思うので、そういうの伝えたいなということで思いを馳せてほしいなって、そういうのはありますね」