【戦後80年】家族の戦争体験に触れる~戦争の資料に見た大叔父の最後 #戦争の記憶
■どこかで引っかかっていた思い
横手市の中心市街地。
堀江靖隆さん57歳は大叔父の戦争の経験を調べていました。
堀江さん
「母親の実家にお盆とか正月になると小さい頃行くと、仏壇の前にこう遺影が飾ってあってこれが戦争で亡くなった人だよっていう話くらいで、ふーんそうなんだってくらいの認識しかなかったですね」
母方の祖父の弟にあたる小原弥助さん。
その死について、これまで詳しいことはわかっていませんでした。
堀江さん
「この人はどんな亡くなり方したんだろうかとか何歳で死んだんだろうかとか、もし今生きてたら何歳だったろうかってのはやっぱりどっかで引っ掛かってたんでしょうね自分のなかで」
■資料から見えてきた大叔父の戦時中の姿
報道を通じて、出征した親族の記録を取り寄せられることを知った堀江さん。
厚生労働省に手続きをして情報の照会を求めたところ、大叔父の軍隊での足跡を記した資料が送られてきました。
名前が載った名簿の抜粋や配属先の遍歴、それに参加した軍事作戦などが羅列されていました。
堀江さん
「出していただいた書類の中に、赤い文字で戦死って書かれてるんですね、これ見た時やっぱりちょっとこう、ドキッとしましたね、本当にじゃあ戦争で亡くなったんですねっていう、実感」
海軍に所属していた大叔父は駆逐艦「朝潮」の通信兵でした。
「朝潮」は今から82年前の1943年、南太平洋の「ビスマルク海海戦」に臨んだ駆逐艦の一つです。
作戦が立案された時点でその難しさと、大きな被害を伴うであろうことがすでに予測されていたとされています。
朝潮は別の艦隊とともに北へと進んでいた最中、単独で方向を反転させて南に向かったと記されています。
堀江さん
「この大叔父が乗っていた戦艦朝潮っていうものが、退避命令が出て引き返してたんですね、んでもしかしたらそれで生還できたかもしれないんですけども、当時のその艦長さんがほかの艦長さんとの約束で、お前が危ない時に俺が助けに行くっていう約束を根拠として、退避命令が出ていたにも関わらずそれを反転して戻っていって、で結果的にはその敵の集中攻撃にあって沈没させられてしまったと、そういう事実がはっきりわかったのが今回これの資料請求したもう一つの成果かなって思ってます」
資料に記されていた朝潮の最後。
「『敵飛行機二十数機見ゆ』と交信したるまま消息を欠く」
この最後の交信を行ったのは通信兵の大叔父だったかもしれない。
そう思わずにはいられなかったという堀江さん。
大叔父の足跡を知ることが自分にできる供養だと考えています。
堀江さん
「自分が逆の立場だったら自分の最後を知ってくれる人がいなかったらちょっと悲しくないですか、自分はこういう状況だったんだよってところを自分の親戚なり親なり兄弟なり、わからなかったらちょっと悲しいなって思います私だったら、だから知られてよかったと」
■ただ一つ残る遺品
大叔父の遺品はほとんど残っていません。
ただ一つ、実家にあった旧制中学時代に書いた習字だけが手元にあります。
大叔父のことを知ることができたからこそ抱く思い。
堀江さん
「すごく知的水準が高かっただろうし、字もきれいだったし、まぁ私なんかと比べたら全然あのすごく優秀な方だったなって思いを馳せています、馳せました」
「歴史にもしは禁物だって言いますけどもやっぱりそれでも、もし生きていたら、いろんな話をしたかったなっては思います」