【戦後80年】秋田大学で行われた特別授業 10歳の講師が語り継ぐ被爆 #戦争の記憶
教員を目指す学生に、「戦争を語り継ぐ」大切さを伝えたい。
秋田大学の外池智教授は、毎年この時期にある特別な授業を行います。
教育文化学部 外池智教授
「終戦当時で、戦場、戦争体験を語れるっていうのを仮に10歳というふうに仮定したとすると、もはや全人口の5%となっちゃってる。一人もこの国から、戦争の、先の大戦の経験がないっていう時代がね、やってくるっていうことですよね」
この日、講師として招かれたのは、八木朱實さん76歳と、細井奏志さん11歳の2人です。
八木さんは、広島で原爆によって家族を失い、孤児になった男性の体験を語り継ぐ、広島市の「被爆体験伝承者」です。
広島市被爆体験伝承者・八木朱實さん
「孤児たちは、捨てられた新聞紙に群がりました。その新聞紙が唯一の食べ物代わりになりました。水にぬらすと柔らかくて、口に入れやすかったのです。生きるためには、何でもしました。かっぱらいや泥棒もしました。残飯を奪い合いました。食べている相手の口から食べ物を奪って食べました。小さい子どもたちは、飢えと寒さで死んでいきました。亡くなった子どもたちの口からは、飢えをしのぐために口にした、石ころが出てきました。死んでしまったら、ゴミと一緒に焼かれる孤児もいました。死んでしまったら、服は奪われ、裸のまま川に投げ捨てられる孤児もいました。彼らは、人間として扱われることはなかったのです」
奏志さんは、東京出身の小学5年生です。
おととし、家族旅行で訪れた長崎の原爆資料館で、案内してくれた被爆者の三田村静子さんと出会ったことをきっかけに長崎市の交流証言者となり、三田村さんの経験を語り継いでいます。
長崎市交流証言者・細井奏志さん
「縁側に用意した丸いテーブルでご飯を夢中になって食べていたちょうどその時です。『ピカー』と外で何かが光り、強い衝撃を感じました。それと同時に、白いご飯の上に、灰みたいなものが降りかかりました。台所にいた兄は、爆風の衝撃で窓ガラスの破片が頭に当たり、出血をしています。そんな中でも私はご飯を食べることを止めませんでした。久しぶりの白米がうれしくて、放射性降下物と思われる灰まで、一生懸命食べ続けたのです」
3歳の時、自宅があった長崎市で被爆した三田村さん。
結婚し、2人の子宝に恵まれましたが、自身は放射線の影響で病に苦しみ、長女は骨盤内腫瘍と診断され、39歳でこの世を去ります。
細井奏志さん
「原爆が落ちた時、私と一緒に縁側にいた姉2人と近くにいた兄、そして後に生まれた私の娘と、めい2人までを含む計7人が、ほぼ1年おきにがんを発病しています。このうち4人とも30代の若さでこの世を去りました。直接の被爆者だけでなく、その子どもたちまでもが若くして犠牲になったわけです」「私は娘に誓いました。命が続く限り、戦争の愚かさ、残酷さ、平和の尊さ、そして核兵器が人体に影響を及ぼす恐ろしさについて、私は語り伝えていくことを」
奏志さんは、自分の言葉で講話を締めくくりました。
細井奏志さん
「戦争は自然災害ではないため、私たちで防げるはずだ。そのためには、みなさんの力が必要であるし、何よりも大切なのは、一人一人が歴史を学び、『戦争を繰り返してはいけない』ということだと思う。そして、平和を求め続ける心を大切にしてほしい。これを僕は未来につなげていきたいのだ。これからも、三田村さんの被爆体験をたくさんの人に知ってもらい、核兵器のない平和な世界を作っていきたいと願っている。ありがとうございました」