【戦後80年】秋田出身の特攻隊員がしたためた1通の遺書 特攻隊員の最後とは…ひとりの兵士の思いに迫る #戦争の記憶

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秋田 2025.08.21 13:14

1937年に勃発した日中戦争、そして1941年に始まった太平洋戦争では、戦地に赴いた約3万4千人の県出身者が犠牲になったと言われています。

戦況が悪化する中、日本軍が行ったのが戦闘機などに人を乗せたまま敵艦に体当たりさせる特攻です。

搭乗員の多くは若者で約50人の県出身者が命を落としたと言われています。

特攻隊員はどのような最後を迎えたのか?

秋田放送は、アメリカ軍が撮影した1本のフィルムと県出身の特攻隊員がしたためた1通の遺書にたどり着きました。

妻と幼い子どもを秋田に残し戦地へと向かった、ひとりの兵士の思いに迫ります。

■戦後80年 伝える遺品

本荘郷土資料館外観由利本荘市にある本荘郷土資料館です。

市民から提供された戦争に関する写真や手紙、それに戦没者の遺品などを展示する企画展が開かれています。

戦地に赴いた兵士だけでなく残された人々の生活にも大きな影響を与えた戦争。

物資が不足する中、兵器の材料として寺の鐘などが没収されたほか、軍資金を調達するために、国債の購入が奨励されました。

佐々木克也さん
「これはあの国の借金ですよね。 で負けてこのお金が返ってくるかっていう話になれば、この国債はただの紙切れになるんですよね。 だからあんまり残ってないですよ」「本荘町の中でも呉服屋さんとか、 木材屋さんとかすごい裕福な家庭が、どんどん貧困になっていく姿っていうのを80(歳台)後半の人たちは目の当たりにしているわけでその話をよく聞くんですけどそれ以外農村だともっと苦しかったんじゃないのかなと思いますね」

展示室の一角に設けられているのが由利本荘市出身のパイロットの遺品を集めたコーナーです。

■奇跡の人 植村中尉

妻、そして子供と写真に納まるのは1936年に海軍に入隊した植村正次郎中尉です。

日本海軍の空母「蒼龍」に乗り組んでいた植村中尉は1942年、連合艦隊が敗北し、日本が制空権と制海権を失う転換点となったミッドウェー海戦に参加。

空母が沈没し海上を漂流していたところを救助されました。

植村中尉がミッドウェー海戦で携えていたという懐中鏡、コンパクトサイズの鏡です。

佐々木克也さん
「奇跡の人なんですけど」「お守りのコンパクトが自分を助けてくれたと」

ミッドウェー海戦から奇跡の生還を果たした植村中尉は帰国後、新たな任務のため九州へと向かいます。

そして1945年3月、特攻隊の一員として戦死します。

■最後の瞬間をおさめたフィルム

植村中尉が参加した特攻隊の作戦はどんなものだったのか・・・

秋田放送はアメリカ軍が撮影した1本のフィルムにたどり着きました。

撮影されたのは1945年3月21日。

九州の沖合で撃墜された植村中尉の部隊の映像です。

約4分間の白黒フィルムには、射程圏内に捉えようと追尾する米軍機と必死に逃れようとする日の丸をつけた戦闘機の姿が収められています。

映像からどんなことが読み解けるのか?

戦闘機の歴史の専門家で戦争の映像にも詳しい織田祐輔さんに聞きました。

織田祐輔さん
「1.2トンの爆弾に操縦席をつけたグライダー」「(落下する)爆弾を人が操縦することで命中させる」

親機となる戦闘機に吊るされた特攻兵器「桜花」。

命中精度を上げる為に乗組員が操縦して目標に体当たりさせる兵器で「人間爆弾」と呼ばれていました。

植村中尉はその親機を操縦していたといいます。

織田さんは植村中尉の軍歴などから「操縦の腕を買われ特攻任務にあたっていたのでは」と推測します。

織田祐輔さん
「(1940年に)鈴鹿海軍航空隊で教員になっているので教えるのも比較的上手かったんでしょうね」「桜花自体は自分で目標の近くまで飛んでいくことができないので桜花を積んだ一式 陸上爆撃機(親機)でアメリカ艦隊の近くまで運んでいってそこで桜花を切り離す」「植村さんのように(太平洋戦争)開戦前から飛行機に乗っているベテランパイロットが(実戦に)出されている」

■遺品が伝えるもの

一度は生還しながらも特攻作戦で命を落とした植村中尉。

生前、妻に宛てた遺書が残されています

「今まで種々苦労かけた俺ばかり我がまましてお前には楽させることもなく何処へもすれて行かず何時も何時も貧乏ばかり良くやってくれた感謝す今度は生還できないと思うが芳行(長男)を頼む暴れん坊だけどそれだけ頼りにもなる」「俺の気持ちはお前がよく知っていることと思う見たら焼け口で言えば涙が出る」

終戦から80年。

記憶の風化が進む中当時の人たちが残した手記や証言は戦争を知る貴重な手掛かりです。

佐々木克也さん
「1歳の子を残して戦地に行って散ると奥さんは確か21か22(歳)だったので、どんでもない切ない状態で(戦地に)行ったと思いますけどね」

企画展を担当した佐々木さんは写真や手紙、それに戦没者の遺品などを通して、戦争の教訓や平和について考えるきっかけにしてほしいと考えています。

佐々木克也さん
「戦争に関してはあまりいい思いを持つものはないと思うんですが、人間がファシズム(全体主義・独裁的思考)に洗脳されていって国民全体がそっちに進んだ時の 恐ろしさみたいなこんな証明だと思っているんですよ」「誰もが従うような社会ではダメだということをこういう遺品を見て再度確認してもらいたいなと思うんですね」「50~60代であれば祖父もしかしたら父世代30代であれば祖父世代がそうだったのだということ全然昔ではないということよく戦後が終わったなんて言いますが、終わってないのだということをもう一度見てもらいたいですね」

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戦没者が残した言葉は80年という月日が流れてもなお、胸に迫るものがあります。

企画展は今月24日まで開かれています。