【戦後80年】戦地へ行った祖父の足取りを知りたい 名前の一字をもらった女性 一人で調査を続ける思いとは 秋田
終戦から80年となる今年、日本テレビ系列各局は「いまを、戦前にさせない」をテーマに特集をお伝えしています。
今回は、戦地に派兵された祖父の足取りをつかもうと、一人、調査を続ける女性についてです。
戦争を経験した人たちがこの世を去り、記憶を伝え継ぐことの難しさが増す中、手がかりをつかもうと取り組むを追いました。
グラフィックデザイナーや執筆家として活動する、大館市の沢田徳子さん。
終戦から80年となるのを前に、祖父・松田徳一郎さんの戦地での足取りを調べ始めました。
「20歳で戦争に行ったっていうのは聞いてはいたんですけど、それだけで、あとは詳しく聞いていなくって」
自分の名前から一字を取り、徳子と名付けてくれたという徳一郎さん。
幼い頃からよく可愛がってくれていたといいます。
戦争で足に重いけがをした、傷痍軍人の徳一郎さんは、沢田さんが12歳の時に亡くなりました。
1937年に勃発した日中戦争に派兵されたこと以外、詳しいことはわかっていません。
「私がこれを(調べて)伝えなかったら、父親世代も聞いていないし、ここで終わっちゃうんだなっていうのがあったので」
「80年っていうの、何かこう区切りがつければっていうのは思っていますね」
徳一郎さんの入隊から除隊までの記録などが残されていないか、沢田さんは、厚生労働省に資料の開示を請求して、さらなる手がかりを探すことにしました。
開示までに要する期間は1か月以上。
沢田さんが訪れたのは、戦争に関する県内の記録が集まる、県の公文書館です。
傷痍軍人などの記録の閲覧を申請し、徳一郎さんの名前がないか調べます。
しかし、その名は見当たりませんでした。
「こうやって協力してくれる方がいろいろいらっしゃるから、なんとか持ちこたえていますけど、一人だと抱えきれないなって思いました、きょう来て」
請求から1か月余り、厚生労働省から資料が届いたものの、徳一郎さんがどこでけがをしたのかまではわかりませんでした。
それから半年余りが経った今月18日。
沢田さんが訪れたのは、実家で祖父と過ごした湯沢市です。
傷痍軍人でつくる団体を通じ、徳一郎さんと親交があった、簗瀬均さんです。
簗瀬さんの父・健一さんも、湯沢市出身の傷痍軍人でした。
沢田さん
「健一さんの、って、どこに行ってどこに行ったっていうのも全部記録としてあるんですか」
簗瀬均さん
「中国さ行って来てから、(太平洋戦争で)南方でやって、南方で負けだどして、アメリカの捕虜に」
沢田さん
「国からこれしか出てこなくて、傷痍軍人記章カードの一等兵の乙が、その戦闘中じゃないらしくて、練習とか修理とかの時のやつで、これ(昭和)16年1月で、太平洋戦争は16年の12月だから、厚生労働省の人に行っていないんじゃないかって言われて、前の日中(戦争)の方じゃないかって」
簗瀬さん
「けがしたからだ。けがしたから中国で終わって、国さ戻してもらった。もしもけがしねば、そのまま南方さ連れて行がいだ」
沢田さん
「(祖父は)フィリピンの話はしなかったので」
簗瀬さん
「行ってねぇな」
「徳一郎さんはよ、南方さ行きでがっだと思う、そうしつけられてるから、国のために最期まで尽くすなんて、死ぬのは当たり前だって覚悟でいたんだけれど、多分、母親にしてみれば、なんぼけがしたたって、生きて帰って来てけだっていうので、多分辛いことは辛いべ。けがするなんてよ。せっかくマメで産んだわらしだもの」
「マメで産んだんだけども、けがしてやざねでも、でも生きてきたと、それだけでも多分救われたんでねぇべがな、徳一郎さんは」
ようやく見え始めた、祖父の足取り。
励ましの言葉をもらいました。
簗瀬さん
「松田さんの人生も生きるとか死ぬとかを乗り越えてきた人だから、多分残された人生を誠実に全うしたんでねぇべがな。それがやっぱり子どもたちどご育てるとか、やっぱりでも辛いことだから、多分言えねがったんでねぇべがな。でも、孫の代になってこいば、やっぱりなんか伝えたいって思いがあったんでねぇべがな。名前もほら、徳っていう字つけて、だがら、いろいろお話したんでねぇべがな、多分。してこの子はもしかへばおいの話分かってくれるんでねぇがなって、かわいくてかわいくて伝えたんでねぇべがなって思う」
終戦から間もなく80年。
世代を超えて戦争の記録を伝え継ぐ難しさは、この先も増すばかりです。
「やっぱり形に残したいっていうのもありますね。つたないながらも。自分にできることを。やっぱり祖父がいたっていうのを何か形にしておきたいなっていうのは変わらないかなって、変わらなくなったかもしれないですね」