【戦後80年】B29墜落をめぐる探検家のアメリカ訪問② 製造会社の日系技術者が語ったことは… 日系人の歴史が刻まれた街でつなぐ#戦争の記憶

この記事をシェア

  • LINE
秋田 2025.08.06 18:01

エブリーは、終戦直後に男鹿市の本山に墜落したアメリカの爆撃機B29の機体の一部を見つけた秋田市の探検家、髙橋大輔さんのアメリカ訪問の特集をシリーズでお伝えしています。

2回目の6日は、B29を製造したボーイングに勤める技術者の男性です。

本山への墜落について、専門的な視点も交えて分析してくれたこの男性は、祖父が大仙市出身の日系3世で、農聖として知られる石川理紀之助の遠い親戚にもあたります。

戦前にアメリカに渡った日本人たちの歴史が刻まれた街も案内してもらい、戦時中や戦後の日系人の歩みにも光を当てました。

■本山へのB29墜落 製造会社に勤める日系人技術者の専門的な視点

秋田市の探検家髙橋大輔さんが訪ねたのは、ワシントン州・シアトルに住むジェイ ショージさん60歳です。

ジェイ ショージさん
「車へ行きましょう。シアトルを案内します」

日系3世で、農聖として知られる石川理紀之助の、遠い親戚にあたるショージさん。

B29を製造したボーイングに勤めている、飛行機に精通した技術者です。

髙橋さんは、終戦直後に男鹿市の本山に衝突したアメリカの爆撃機B29について話を聞きました。

捕虜に食料などの物資を運んでいるさなかに霧で視界を失って墜落したB29。

バラバラになった機体は当時、大半が回収されましたが、一部は80年近くにわたって山中に残っていました。

髙橋さんは、それらを今年6月にかけて次々と発見。

見つかった地点は、いずれも標高715メートルの本山の中腹です。

B29の痕跡を発見した場所から分析できることをショージさんに尋ねました。

髙橋大輔さん
「ここは油圧パイプを見つけた場所です」
ジェイ ショージさん
「わかりました。飛行機はこのように飛んでいましたね?」
髙橋大輔さん
「ええ、こちらへ。ほぼ一方向です」
ジェイ ショージさん
「もしここで接触して尾翼部分が折れたら、飛行機の残りの部分は、その時点で制御不能になります。尾翼を失うと、とにかく飛行機は安定しません。それで翼、着陸装置、全てが散らばった」

ショージさんは、ボーイングで航空機の墜落事故の調査も担当しています。

髙橋さんは本山で発見したB29の機体の一部と、その周辺にあった金属を見てもらいました。

ジェイ ショージさん
「大きさから見て最初に思ったのはライターでした」
髙橋大輔さん
「わたしもそう思います」

まだ持ち主などは特定されていません。

ジェイ ショージさん
「荷物は散乱し、墜落時にはバラバラになります。衣類や私物が見つかりますが、所有者を見分けるのは非常に困難です。なぜなら、飛行機に乗っていた人は、家に帰れると思ってライターをポケットに入れておくだろうと。でも、ここにはライターしか残っていません。だから、そこがすごく難しい部分なんです。」

■秋田とのつながり アメリカへ渡った祖父

航空産業が盛んなシアトルで生まれ育ったショージさんの、祖父・源之助さんは大仙市の角間川町出身です。

1907年、28歳の時にキリスト教を深く学ぶためにアメリカに渡りました。

太平洋戦争の際には、敵国からの移民として一時強制収容所に入れられた源之助さん。

アメリカ軍に許しを得て、牧師として各地の収容所を回って祈りをささげました。

髙橋大輔さん
「自分とか自分の家族が、収容されているキャンプだけじゃなくて。いろんなところに出向いて行って。出向くって言っても、このアイダホのキャンプも砂漠のど真ん中にあるので。とてもじゃないけどそこから、外に出ることも難しいわけですよね。やっぱり自分たちも苦しいんだけども、苦しい中でも他者を慰めるっていうことをしたっていうことが、源之助さんの戦時中の一つの大きな業績だろうなというふうに思いますよね」

戦後、源之助さんはシアトルで日本人教会の設立に力を尽くしました。

献身的な活動が認められ教会の「名誉会員」として、今も たたえられています。

結婚して子や孫にも恵まれた源之助さん。

ただ、戦前から戦時中、戦後のシアトルの日系人の歩みは平坦な道のりではありませんでした。

■「GAMAN」の精神 戦争によって一変した日系人の生活

シアトルがあるワシントン州には今、約9万人の日系人が暮らしています。

「パブリックマーケットセンター」は1907年から続く伝統的な市場で、戦前は日本からの移民の農家が中心になって、軒を連ねていました。

市場の看板のすぐ下には日系人のアート作品が展示されています。

ジェイ ショージさん
「第二次世界大戦前、シアトルに移住した日本人移民の1世の多くは農業をしていました。彼らの多くは土地を所有していなかったので土地を借りていました。そのため、彼らの農産物や製品を販売する場所の一つが市場でした」

しかし、戦時中にはシアトルでも日系人の強制収容が進められました。

ジェイ ショージさん
「12万人が強制収容所に送られました。ですから、家族や人々の生活、そして以前の生活様式は完全に崩壊しました」
髙橋大輔さん
「まさに劇的な変化ですね。奇跡的にも思えます、多くの日本人は農家から始まりましたが、戦争が終わった後、人々は…」
ジェイ ショージさん
「『GAMAN』の精神ですね、ひたすら前に進み、振り返らないという感覚を持つようになりました。それが私の両親の世代の人々に深く根付いていました」

■日系人の歴史が刻まれた街が与える教訓

日系人や黄色人種への差別もあったアメリカ。

シアトルには日本からの移民の痕跡を見ることができる場所もあります。

100年以上の歴史がある日本町です。

髙橋大輔さん
「日本町の中心的な存在で。戦争が始まって多くの人がここから強制的に、収要所に送られたあと、このパナマホテルの地下に多くの人が荷物を入れて、そのままにして収容所に行っちゃったんですけど。その戦後戻ってくる人があまりいなくて、それでもうここにずっと残されたまま置かれてたって、そういう歴史があるみたいですね」

戦時中、日系人は祖国の日本か、移り住んだアメリカか、選択を迫られました。

アメリカ軍には、徴兵された日系人だけの部隊も。

髙橋大輔さん
「日本と戦う部隊ではなくて、ヨーロッパに派遣するんですよね。優秀さが認められて。日系人がアメリカで機能する実績を作ったんですよ。やっぱりそういうベースがあるから戦後、日系人というのは、またここで地位を確立するきっかけになったというか。そういうだから戦争が彼らにとってその非常に、むごい運命を与えたけど、それに打ち勝って、彼らがここで地位を築いたということですよね」

ショージさんは、今のアメリカの移民政策や他国との向き合い方も、かつてに通じるものがあると話します。

ジェイ ショージさん
「日本町は新たな反日感情を生み出すものではなく、過去に起きたことを教えてくれる存在なんです。人々に『ほら、これは1941年、42年に起こったことだ、同じことが繰り返されている』という教訓を与えてくれます」

日系人の戦前・戦時中・そして戦後の暮らしが色濃く残るシアトル。

争いの絶えない世界へ今も警鐘を鳴らしています。

♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢

アメリカ訪問の特集、7日は、B29墜落の唯一の生存者の家族についてお伝えします。

♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢

秋田放送では「いまを、戦前にさせない」をテーマに、今後も様々な特集をお伝えしていきます。

戦争に関する日記や写真、映像などの資料をお持ちの方は、こちらの二次元コードから情報をお寄せください。
[https://www.ntv.co.jp/sengo80/info.html]

FAX 018ー825-2777

郵送 〒010-8611
秋田市中通七丁目1番1-2号でも受け付けています。