【戦後80年】爆撃機B29の墜落 生存者の足取りを追う 能代での交流とそれぞれの思い #戦争の記憶
アメリカの爆撃機B29が、終戦からわずか2週間後、捕虜に物資を運んでいるさなかに男鹿市の本山に墜落しました。
髙橋さんは現場付近に残されていた機体の一部を次々と発見しています。
6月上旬には1メートル84センチにも及ぶ巨大な着陸装置を見つけました。
ABSニュースエブリーは髙橋さんのアメリカ訪問によるB29の機体の一部の検証や、乗組員12人のうちの唯一の生存者、ノーマン・H・マーチンさんの子孫に話を聞く取り組みなどを、追い続けてきました。
お伝えするのは、救出されたあとのマーチンさんの秋田での足跡を追う特集です。
敵国だった日本に、墜落によって突如降り立ったマーチンさんの通訳を務めた男性、そして、当時の映像が残されている能代への滞在に光を当てます。
♢♢♢残された機体が語る歴史
1945年の8月28日に墜落したB29。その機体の一部がふもとの加茂青砂地区にも残されています。
髙橋大輔さん
「今調べてみたところ、これが酸素ボンベの半分に切ったやつですね」
酸素ボンベは、乗組員の席の近くなどに備え付けられるもので、髙橋さんが6月下旬に訪れたアメリカにある航空機の博物館に残されているB29にも設置されていました。
この酸素ボンベが使われるような緊急事態が80年近く前に発生。
あの日、B29は、大館の花岡にある捕虜収容所に物資を運んでいたさなかに、男鹿の上空で、霧のため視界を失い墜落しました。
乗組員12人のうち11人が死亡。
ノーマン・H・マーチンさんが唯一生き残りました。
加茂青砂地区の住民たちに助け出されたマーチンさん。
1990年に加茂青砂を訪れ、感謝の思いを直接伝えました。
マーチンさん
「とてもとてもうれしいです。夢がかなった。本当に夢のようです」
墜落やその後の出来事を今に伝える手掛かりになる酸素ボンベ。
加茂青砂にはもう一つ、当時、住民が山から持ち帰ったB29の一部があります。
尾翼席の窓ガラスです。
1人切り離された場所で乗組員が任務に当たる尾翼席。
髙橋さん
「この場所に乗っていたのがマーチンさん。マーチンさんからすると自分の正面にあった窓なので」「これで敵国の時代も日本を見ていたんでしょうし」
「とてもマーチンさんと近い、とこに今いるなっていうのを感じさせるそういう、モノが見つかった。これはだからとても貴重な宝ですね」
2度目の加茂青砂でも、この窓ガラスを目にしたというマーチンさん。
墜落の直後はふさぎこむことも多かったといいます。
♢♢♢通訳の男性とマーチンさんの交流
そんなマーチンさんを支えたのは加茂青砂の住民だけではありません。
千葉みどりさんの祖父、石川美津さんはマーチンさんの通訳を務めました。
千葉みどりさん
「ここに出ていますね。」
髙橋さん
「これなんか見ると本当に通訳なので、マーチンさんと、警察か。軍か。わかんないですけど、そういう方と隣にいて」
終戦直後の、混乱が続いていた時期。
石川さんは軍国主義者に狙われて、帰って来られないかもしれないという覚悟を長男に伝えてマーチンさんに同行しました。
千葉さん
「この写真はやっぱり祖父の遺品の中に、ありました。やっぱりずっとこう祖父自身もこの写真を大事に。とっておいていたみたいですね。マーチンさんと祖父と並んで映っていますけど」
「初めてお会いした時ももう、全然、こうガタガタ震えているばかりで、一言もしゃべれなかったということは祖父は言っていたみたいですね」
髙橋さん
「自分がそのターゲットになるかもわかんないということ」
マーチンさんは、アメリカからの迎えを秋田で待ったおよそ10日間のうち、大半を一緒に過ごした石川さんに次第に心を開いていきました。
ネルさん「通訳は眼鏡の男性ですね、この方ですよね。」
髙橋さん「この記事によると、マーチンさんは石川さんを父のように思ったと話していた」
アメリカにいる、マーチンさんの長女で戦後生まれのネルさんは、当時の状況を踏まえて2人の関係に思いを寄せました。
ネルさん
「トラウマができるような経験で、とても怖くて。周りの人たちは言葉を理解してくれない」
「父は何十万人もの日本人が殺されたであろうことを知っていました。どうしても彼らが自分を救うとは考えられなかった」
「まるで救世主のように恐怖から救ってくれたのです。石川さんはおそらく父に、殺される運命ではないと安心させたのでしょう。だから父は石川さんにとても愛着を感じた」
髙橋さん
「通訳という壁を越えて。なんかこう人間対人間との関係の時に、なんかすごくこう、石川美津さんが、いろんな形でこう、マーチンさんを支えたんじゃないかなっていう。」
千葉さん
「年齢的にも。お父さんの年齢ではありましたよね、55歳でしたので、はい、昭和20年」
マーチンさんが再び秋田を訪れた際にはすでに亡くなっていて再会は果たせなかった石川さん。
生前、「マーチンさんの通訳が生涯一番の思い出だ」と家族に伝えていました。
加茂青砂で救助された後、能代にも滞在していたマーチンさん。その足跡を追いました。
♢♢♢マーチンさんの足跡
秋田市の探検家髙橋大輔さんは先週水曜日、能代市の、創業130年近い老舗プラザ都を訪れ、会長の大谷直子さんに話を聞きました。
プラザ都代表取締役会長 大谷直子さん
「床の間の、床柱とかですね、こういうあの、ものは、利用しています」
髙橋さん
「そのままですね」
大谷さん
「そのまま昔のまま」
当時は都亭という名前の料理店だったこの場所は、終戦直後に男鹿市の本山に墜落したB29の唯一の生存者ノーマン・H・マーチンさんが能代に滞在した際の生活の拠点です。
接客の中心を担ったのは大谷さんの祖母トキさんで、叔母の利子さんもこのときのことを良く覚えていました。
大谷さん
「床の間の裏側にね。1部屋あったんです。そこにあの泊まっていたと。叔母が言ってました。」
髙橋さん
「ああそうですか。今で言うこの床の間正面の、裏にあった」
大谷さん
「あったらしい、ありました確かに。」
髙橋さん
「それは何かご記憶」
大谷さん
「はいはいはい」
大谷さん
「ただこの広間で、一生懸命空を眺めて、いたっていうのは叔母から聞きましたね。なんか、迎えがいつ来るんだろうなって思っていたんじゃないのって」
マーチンさんに年が近い長男が戦死していた、トキさん。
4日間にわたった、マーチンさんの都亭への滞在の対応を中心になって担いました。
大谷さん
「マーチンさんを受け入れてまぁなんとかこう、無事に、送り出すことができましたよね。」
「敵だ味方だというよりも。1人の若者がね、助かったと、良かったなと。おばあちゃんは思ってたと思いますけどね。」
マーチンさんが能代で訪れた場所はほかにもあります。
能代キリスト教会です。
外壁などが当時と変わらず残っています。
B29の墜落で亡くなった11人の遺骨が一時安置されたこの教会。
大髙一彦さん
「これは遺骨ですね。」
髙橋さん
「ええ。んでこれ、能代の教会で、撮影したものだというので」
大髙さん
「そうです。顔見知りの人がここにいます。」
位が高い聖職者が青森の弘前から駆け付ける形で礼拝が営まれました。
大髙さん
「大切な場面の時に、現れるといいますか。」
髙橋さん
「このときもじゃあノーマンさんと、アメリカのやっぱり事故で亡くなった方を、霊をなぐさめたいというかそういう思いで」
手厚い対応を受けたマーチンさんは1990年に秋田に来た際、この教会も訪れて、祈りを捧げました。
最初の能代の滞在では都亭と能代キリスト教会で大半の時間を過ごしたマーチンさん。
帰国に向けた飛行機が迎えに来たのは、旧陸軍の能代飛行場です。
地元では東雲飛行場とも呼ばれていました。
小野立さん
「飛行場どこら辺までありました」
本庄和子さん
「飛行場はその突き当りまでです」
能代飛行場について詳しい母がいる小野立さんと、当時を良く知る本庄和子さんと一緒に、跡地を回った髙橋さん。
今も残されている、数少ない当時の痕跡を巡りながら話を聞きました。
弾薬庫として使われていたとされている建物は、鉄筋コンクリート造りで今は能代支援学校の資材置き場になっています。
特攻隊の訓練場としても活用されていた能代飛行場。
本庄さん
「ぽち、ぽちっとしかないですから、連続している建物っていうのはなかったですね。」
「こういうふうなところのあの火災あったりすれば大変ですから。大体あの離れたところにつくってあるんですよね」
髙橋さんは本庄さんに当時の映像を見てもらいました。
髙橋さん
「これあの、この建物ってどういう建物」
本庄さん
「格納庫だと思います」
髙橋さん
「格納庫、何を格納」
本庄さん
「飛行機です」
終戦直後は格納庫の前で1週間にわたって飛行機が燃やされ、煙が上がっていたと話す本庄さん。
本庄さん
「懐かしいっていう気持ちにはなりません。それ見てああそういう時代を生きてあったんだなと、その時に私には何の力もなくて。ただ、流される。ほかの方もそうであったかもしれないけど。『ああいやだ』っていうことも言えない。『良かった』っていうことも言えない虫けらみたいな存在だったなって今思って見てます。一言でも何か言えるような立場を持っていればなんか言ってあっただろうに。何も言えなかったなぁと。情けないです。」
本庄さんは、マーチンさんが能代飛行場から飛び立ったことはこれまで知りませんでした。
住民に広くは周知されなかった墜落の唯一の生存者の滞在。
終戦直後の状況や空気を80年近く経つ今に伝えています。