【戦後80年】知られざる史実が明らかに…男鹿市の本山に墜落したB29 亡くなった11人の告別式が行われた秋田市の教会を取材
終戦から80年となる今年、日本テレビ系列各局は、「いまを、戦前にさせない」をテーマに、特集をお伝えしています。
12日は、終戦直後に男鹿市の本山に墜落したアメリカの爆撃機・B29に関する、探検家・髙橋大輔さんの取り組みです。
男鹿のジオパークガイドの男性から相談を受けて、B29の機体の一部を探索し、次々と探し当ててきた髙橋さん。
墜落したB29に乗っていた12人のうちの唯一の生存者、ノーマン・H・マーチンさんの県内での足跡を追う活動も続けています。
救出後、秋田市にも訪れていたマーチンさん。
亡くなった11人の告別式は、市内にあった教会で行われていました。
知られざる史実に光を当てます。
■墜落で犠牲になった11人 告別式が行われた秋田市の教会へ
男鹿市の本山に墜落したB29の機体の一部を探している、秋田市の探検家・髙橋大輔さん。
髙橋大輔さん
「こう行って多分どこかで、最初に機体を見て、墜落地点に」
1945年の8月28日に墜落した、B29。
男鹿市の加茂青砂地区の上空を飛んで、捕虜を収容していた大館市花岡に、食料などの物資を届けようとしていました。
しかし、本山に激突し、機体はバラバラに。
ノーマン・H・マーチンさん
「何人の人が私を助けてくれたんでしょうか」
乗っていた12人のうち、ノーマン・H・マーチンさんが唯一生き残り、加茂青砂の住民に救出されました。
死亡したアメリカ兵11人も、県内で丁重に弔われています。
同行したマーチンさんは、当時、秋田市内にも数日滞在し、教会などを訪れていました。
高橋大輔さん(58)
「秋田市で、11人、亡くなられた方の遺体を荼毘に付して、火葬場で、これは(当時の)川尻の火葬場で荼毘に付して、その後、秋田市の教会で告別式を行ったという記録があるんですよね」
告別式が行われたのは、130年余りの歴史がある、日本キリスト教会秋田教会です。
B29が墜落した時期は、秋田市の下長町、今の中通5丁目にあり、60年近く前に保戸野桜町に移転して、今に至ります。
髙橋さんは、終戦前後の写真や日誌を、駒井利則牧師に、見せてもらいました。
駒井利則 牧師(77)
「下長町の教会に来たというのは、多分、外国のミッションというものの関係だろう」
終戦から5か月半ほど後に行われた、合同礼拝の際の写真も残されていました。
駒井 牧師
「進駐軍牧師、ジョージ氏の申し込みにより、合同礼拝をなす」
髙橋さん
「合同礼拝」
駒井 牧師
「だからこの時に進駐軍の兵士たちが、進駐軍が14人。ここの教会の教会員と合わせて、67人ですね」
「戦時中は、宣教師がみんな帰って行ったし、戦後は私たちは新しい教会に、外国のミッションとはあまりつながりを持たなかったんですよね。だから、戦前のミッションとの関係で来たというよりは、何かほかの事情で、進駐軍が14人も訪ねて来た」
「今回お話をいただいて、考えてみたら、そのB29の事故と関係があるかなというふうに」
マーチンさんも参列した告別式。
その後、教会には、11人の遺骨が一時、安置されました。
250人以上が犠牲になったとされている、秋田市の土崎空襲の直後のことです。
髙橋さん
「やっぱりあの土崎空襲の、わずか2週間後に事故があって」
「かなり石油のタンクが燃えて、空が真っ赤になったとか。男鹿なんかはもっともっと対岸に見えるので。そのぐらいの状況の中で、その米兵を救ったっていうような」
駒井 牧師
「そうですよね」
髙橋さん
「やっぱり土崎空襲っていうのを通り過ぎ、無視できないような、やっぱり事故の関連の一つの出来事として考えないと、あの事故の、救出劇っていうのは読み解けないなとは思っているので」
■土崎空襲とB29墜落事故 生き残った米兵の救出劇の裏側
髙橋さんは、土崎空襲があった時、秋田市内で暮らしていた3人に話を聞きました。
齊藤京子さん(85)
「川尻の丘からもわーっとした、明かりの燃えている、あれ炎のみたいなものが子どものころに感じたそれだったんだなと思って、今感じた」
加賀谷律子さん(96)
「飛行機は飛んできたよね。空襲の前にもね」
齊藤さん
「親戚がね、八橋…寺内にいたんですよ。おじがね、その時走って行って『寺内(方向)燃えてる』って言って」
山田紀夫さん(85)
「爆弾の光でね。もうみんな避難した方がいいっていうので。どうなるのか分からないんでね。とりあえず、家から出なさいって言うんだよ。それで布団をかぶって、田んぼで」
髙橋さん
「あぁ、じゃあ、防空壕っていうよりも」
山田さん
「うん。防空壕なかったんだもん」
髙橋さん
「なかったんですね」
山田さん
「当時は。家はなかった」
マーチンさんが救出されたのは、戦後の混乱が続くさなかでした。
髙橋さん
「救った方も危険を冒しているっていうか。まぁ言ってみれば敵兵に力を貸すじゃないけど、戦争は終わってはいるけど。お前それをやったのかってまたこう袋だたきにあってもおかしくないぐらいの」
加賀谷律子さん(96)
「敵は憎いなって思って、まだ気持ちがあんまり整理ついてないような、まぁ子どもながらに。怖かった」
髙橋さん
「怖いですか。怖いというのは、敵が、戦争の」
加賀谷さん
「うん。アメリカの軍人さんが、家の前をよく通る。夜は絶対歩かれない。私の姉。襲われたことがある。襲われたっていうのはおかしいけど。それから家の中に入って来たアメリカの軍人さん、結構おります」
髙橋さん
「それは怖いですね、本当にね」
加賀谷さん
「怖いです」
それでも当時、マーチンさんを助け出し、受け入れた秋田の人たち。
マーチンさんは男鹿市に始まり、秋田市、そして能代市で合わせて10日余りを過ごしました。
加賀谷さん
「それはやっぱり、人と人とのその時の状況で誰でも。というかやっぱりそういう気持ちになるんじゃないですか。私だって助けられたこともあるし。いろんなことがあるからね」
髙橋さんは、この先、能代市やアメリカなども訪れて、マーチンさんの足跡を追い続けることにしています。