【戦後80年】B29墜落をめぐる探検家のアメリカ訪問① 男鹿市で発見した痕跡がつなぐ #戦争の記憶
終戦直後に男鹿市の本山に墜落したアメリカの爆撃機B29の機体の一部を発見した秋田市の探検家、髙橋大輔さんの取り組みです。
髙橋さんは、6月下旬にアメリカに渡って、墜落の唯一の生存者の家族に話を聞いたり、現地にしかない資料を分析したりしてきました。
その模様を5日から4日間続けてお伝えします。
まずは、ワシントン州のシアトルにある航空機の博物館です。
ここでは当時のままの形でB29が残されていて、その全体像や内部を確認することができます。
発見したB29の機体の一部との比較などを通して当時の出来事の輪郭がさらに鮮明になっていきました。
■当時の形のまま残るB29 本山で発見した機体の一部との比較
アメリカ西部、ワシントン州最大の都市シアトル。
航空産業などで栄えてきた街を6月下旬、秋田市の探検家、髙橋大輔さんが訪れました。
向かった先は、数多くの航空機が展示されていて、その歴史にも触れることができる博物館、ミュージアム オブ フライトです。
ここには、アメリカの爆撃機B29も当時のままの形で残されています。
1944年の後半に製造された機体。
目を引くデザインや色は、襲撃に備えて機体を隠す必要がないほどアメリカが攻勢をかけていた時期に開発されたことを物語っているといいます。
終戦直後に男鹿市の本山に墜落したB29の一部を発見した髙橋さん。
飛行速度を測る機器、「ピトー管」。
広報官・テッドヒュッターさん
「飛行前にピトー管のカバーを外します」「パイロットに見せなければならないそうです。カバーが外れていることを」
髙橋大輔さん
「なるほど。なるほど。ちゃんと外したと示すためですね」
髙橋さんは特別な許可を得て機体を見て回り、本山のB29の痕跡と比較しました。
着陸装置は、髙橋さんが発見した中で最も大きな機体の一部。
長い部分は1メートル84センチもありました。
比べてみると、本山で見つかった着陸装置は大部分が残っていたことがわかります。
リチャードハースティーさん
「これが、その部分だと思います」
髙橋大輔さん
「これですね。なるほど。」
リチャードハースティーさん
「これが何かという話ですね」
髙橋大輔さん
「ええ、これです」
■改良が続けられたB29 当時の先端技術を結集して生み出された“空の要塞”
博物館にある機体には、改良が進められている部分もありました。
髙橋大輔さん
「最先端の技術を取り入れながら、戦争の4年間とか、そういう中でもどんどん、実は同じB29の中でもどんどんどんどん進化を遂げてきた」
原爆の投下や東京大空襲、それに秋田市の土崎空襲などで、30万人以上の命を奪ったとされるB29。
打ち合いを想定して造られた戦闘機と違って、爆弾を落とす攻撃に特化しています。
多くの爆弾を積めることから空の要塞とも呼ばれ、恐れられていました。
エバンエリオットさん
「右側に圧力隔壁が見えています。これが圧力隔壁です」
乗組員がいる機体の前方と後方は気圧が一定に保たれていて、トンネルで行き来できる仕組みです。
エバンエリオットさん
「このトンネルを通ることで、その気圧も変わらないし、あと空調も整っていたので。上空に行っても寒くならないように」
当時の先端技術を結集して生み出された機体の内部はどのような状況だったのか。
髙橋さんは整備士などに案内してもらって、前方の部分から見て回りました。
コンピューターによる制御も行われていたB29。
エバンエリオットさん
「敵機が近づいてくるのを画面いっぱいに表示します」「トリガーはこれです。これがトリガーです。席で敵機を追跡できるということですね」
機関銃が機体の上部と下部、そして後部にもあります。
乗組員には銃撃や操縦のほか無線の通信、レーダーの操作など、それぞれ役割がありました。
■本山に墜落したB29 生き残ったただ一人の乗組員の運命
霧で視界を失ってB29が本山に墜落したのは1945年の8月28日。
捕虜に物資を届けるさなかの出来事でした。
12人の乗組員のうち生き残ったのはただ一人。
ノーマン・H・マーチンさん、当時19歳です。
1990年の音声取材
「殺してしまえとか、話もされてあったと。まぁ当時のね、国民感情からすれば、あながち不思議でもないしね。」
「ナタたがえたりカマたがえたり行ったもんだから、このノーマン軍曹、ほれ、助かっていたども、殺されるかと思ってびっくりしたんだな。」
墜落現場の本山のふもと、加茂青砂地区の住民たちに助け出されたマーチンさん。
感謝の思いを伝えに、1990年に加茂青砂を訪れました。
マーチンさんはB29が墜落した現場も見て回り、亡くなった11人を追悼しました。
墜落の後に結婚して、子や孫、ひ孫にも恵まれたマーチンさん。
マーチンさん
「孫や子どもたち、将来の世界中の子どもたちのために。日本もアメリカも戦争をせず、世界の平和が続くように一緒に歩み続けなければならない」
マーチンさんが乗っていたのは機体の尾翼席です。
すれ違うのも難しいほどの通路を抜けた先。
身動きがとりづらい狭い空間に機関銃の発射装置が備え付けられ、周囲を見渡すことができるようになっていました。
ただ一人切り離されて任務に当たる、孤独な空間です。
高橋大輔さん
「爆撃機なんだけどB29は。ただこう、銃手として、戦う役割を与えられていた人からすれば、ギリギリのところに立たされた、戦士というか。戦争の、ここもまた一つの最前線なんだなという」
■戦争の記憶をつなぐB29 80年経って発見された痕跡が果たす役割
ようやく終わった戦争。
そのわずか2週間後のあの日、マーチンさんが見た景色は。
髙橋さんは博物館でB29を案内してくれた人たちに、墜落にまつわる出来事や機体の一部の発見について本にまとめることを伝えました。
髙橋大輔さん
「書くことに価値があります。第二次世界大戦後のB29墜落について書いた本は見つけられませんでした」
リチャードハースティーさん
「ええ。残念ながら、この辺りでは、第二次世界大戦のことなど全く知らない子どもたちがたくさんいます。あっという間に忘れ去られてしまうんです。」
エバンエリオットさん
「80年。長い時間、長い時間、そして多くの世代が過ぎ去り、多くのことが伝わっていません。平和な今の時代には戦争をどう伝え残すのかが課題なんですね。」
機体の痕跡の発見がつなぐ、戦争の記憶。
80年近くが経った今、当時の出来事に光を当てることでその輪郭が、少しずつ鮮明になってきています。
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