【戦後80年】B29が投下した物資の下敷きに…失われた6歳児の命 終戦直後の大館で起きた悲劇とは 知られざる歴史が判明 目撃証言も 秋田

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秋田 2025.09.12 18:07

終戦直後、捕虜に物資を運んでいたさなかに男鹿市の本山に墜落したアメリカの爆撃機B29に関連する特集です。

墜落した日に、一緒に任務にあたっていた別のB29が、大館市にあった捕虜収容所を目がけて投下した物資の下敷きになって6歳の男の子が、死亡していたことが新たにわかりました。

アメリカとオーストラリアの捕虜合わせて2人も、同じようにして命を落としています。

当時について知る男性は、“今、紛争が起きているパレスチナ自治区ガザ地区の支援物資投下のようだった”と語りました。

秋田市の探検家、髙橋大輔さんの調査に同行し、知られざる史実に光を当てます。

■終戦から2週間後…失われた尊い命「6歳だから、どんな人生があったのかな」

大館市花岡町の信正寺にある墓地。

ここに6歳の男の子が眠る墓があります。

先月末秋田市の探検家、髙橋大輔さんが慰霊に訪れました。

髙橋大輔さん
「6歳というのはあまりにも、痛ましいですね。戦争がしかも終わって6歳だから。どんな人生があったのかなと思うと」

墓碑に刻まれていた命日は「昭和20年8月28日」。

終戦からわずか2週間後、男鹿市の本山にアメリカの爆撃機B29が霧で視界を失って墜落した日です。

あの日、2機のB29と戦闘機が大館の花岡にあった捕虜収容所に物資を運んでいました。

アメリカ軍は墜落せずに残った2機で任務を続行。

缶詰に入った食料や服、それに靴など、生活に欠かせない品々をまとめて、パラシュートで落としました。

この物資の下敷きになって大館の6歳の男の子が死亡。

アメリカとオーストラリアの捕虜、合わせて2人も同じように命を落としています。

■当時を知る住職が報道機関を前に初めて話す“あの日” 

当時を知る蔦谷達元さん90歳。

報道機関を前にしてあの日の話をするのは初めてだといいます。

蔦谷達元さん
「ちょうど今のあのテレビで見る、中東のあれと思って。落下傘が来るとわーっと走るんですよ。やっぱりそこで来るとほれ、やっぱりなんぼでも。食料ないから」

先月8月のパレスチナ自治区ガザ地区への食料などの支援物資投下の映像です。

ガザ地区でも終戦直後の花岡と同じように、物資が直撃したことによって15歳の少年が死亡しています。

花岡へのB29の物資投下では当時蔦谷さんの父親が住職を務めていた信正寺にも被害を及ぼしました。

蔦谷達元さん
「風かなんかであの。積んだ荷物。物資が落下傘から外れるか何かして、その一つがあの信正寺の本堂の屋根に投下されて、穴あいてひさしを破って床を破って下さ降りたのもあったんです、一つ」

終戦直後で資金や資材がなかったこともあり、信正寺の修復には時間がかかりました。

すべてを直すことができたのは蔦谷さんが住職を継いでからです。

蔦谷達元さん
「床とかひさしとかは直すけども、本堂は屋根の柱が落ちたまま下がっていたままになっていたから」

あわや大惨事でしたが、幸いけがをした人はいませんでした。

■「俺は落ちてきたやつを見に行ったけれども…」当時5歳だった目撃者の男性が語ったことは

髙橋さんは物資投下をより詳しく調べるため、大館市の花岡平和記念館を訪れました。

髙橋さん
「お話を伺いたいということで」
谷地田恒夫さん
「あなたはいい時に来たよ。もう3年か4年経つと俺がぱーなってるから。おれこれの目撃者だもの」

花岡平和記念会の理事、谷地田恒夫さん85歳も当時を知る一人です。

谷地田恒夫さん
「B29が飛んできて、その観音堂(花岡)に落下傘で、食料を落とすわけですよ」
「俺は落ちてきたやつを見に行ったけれども、彼(死亡した児童)は、落ちてくる途中を見に。彼の家っていうのはその辺なんだよ」
髙橋さん
「近いんですね、その当時」
谷地田恒夫さん
「すぐ走って、なんぼ、200メートルもあれば観音堂だから。それ、見に。走って見に行って、落ちてきた、落下傘の下敷きになった。そしてあともう、2人で行って、1人はけがしたっていう」

物資が投下された花岡には、当時鉱山がありました。

強制連行された中国人労働者が、過酷な労働を強いられた花岡鉱山。

アメリカとオーストラリアの捕虜も働かされていました。

髙橋さん
「中国人の扱いと、欧米の人の扱いってやっぱり差があったっていう」
谷地田恒夫さん
「それは分かんない」
髙橋さん
「それは分かんないですか」
谷地田恒夫さん
「それを知ってる人はもう誰もいないと思う。当時5歳の俺が85だもの。当時、二十歳ぐらいの人はみんな逝っちゃってるから。誰も証言する人いないと思う」

捕虜収容所があった場所は鉱山の近くにありました。

成田博樹事務局長
「採掘している場所が右のほうにあった形になるので」
髙橋さん
「はい。あの鉱山の」
成田博樹事務局長
「はい」

跡地は草木に覆われていて、建物の痕跡さえうかがい知ることはできません。

80年が経った今、現場周辺にはクマを捕獲するためのおりが、置かれていて、車から降りて近づくこともままならない状況です。

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これまで大館市では戦時中に中国人労働者が、過酷な労働などに耐えかね一斉に蜂起したものの、弾圧され、400人余りが命を落とした、花岡事件を中心に光が当てられてきました。

終戦後の捕虜への物資の投下で3人が亡くなっていたことも埋もれさせてはならない歴史の一幕だと感じます。