【戦後80年】壮絶な戦場の体験に平和への思い…父の手記を一冊の本に 戦後80年の今だからこそ伝えたい父の思い

この記事をシェア

  • LINE
秋田 2025.06.20 18:07

間もなく終戦から80年を迎えます。

秋田放送を含む日本テレビ系列各局は、「いまを、戦前にさせない」をテーマに、様々な特集をお伝えしています。

今回は、父親が生前に書き記した壮絶な戦場の体験。

そして、後世に伝えたかった平和への思いを一冊の本にまとめた、由利本荘市出身の男性にスポットを当てます。

■爆撃機の事故の記録も…ある整備兵の回顧録

今から5年前の2020年。

ある整備兵の回顧録が、自費出版されました。

豊富な挿絵と事細かな描写によって、80年以上前に起きた戦場での出来事が、手にとるように把握できます。

「飛行の安全は整備により担保されるものであり、整備の重要性は徹底的に叩き込まれた」
「ある時、少年航空兵の操縦する爆撃機の試験飛行に同乗したことがあった」
「その際、着地に失敗して胴体着陸をした大事故に遭遇した」
「機体前部は大きく破損し、操縦士は一瞬気を失った。後部座席に座っていた我々もかなりの衝撃を受けたものの幸い全員無事であった」

■父の思いを伝えたい 手記をまとめて自費出版

回顧録を自費出版した、由利本荘市出身の小笠原公夫さん(68)です。

2018年、父・公一さんの13回忌の前に、由利本荘市の実家で遺品を整理していたところ、戦争中の出来事を記録したノートや絵が大量に現れました。

小笠原公夫さん
「晩年9人の孫がいましたので、実家に集まった折にはこれ(絵)を紙芝居のようにして聞かせてくれていた姿、今でも思い出すんですけども」
「このまま私も、年齢が年齢ですので、いつ亡くなるか分からない。このまま廃棄するというのは簡単にできると思いますけど、何か記録に残したいなと思ったんですね」

戦争について語ってくれたり、当時の記憶を几帳面に書き残したりしていた、父・公一さん。

その姿を思い出し、小笠原さんは翌年の2019年に一念発起して、父の回顧録をまとめ始めました。

「ビンタはひとりの兵の過ちに対し連帯責任で班全員に罰として与えられた。平手の代わりに帯皮(ベルト)や下駄等を用いて行われる時もあった」
「初年兵当時は、この夜の点呼が一番嫌であった」

地元の学校を卒業後、東京や神奈川の工場で働いていた公一さん。

召集令状が届いたのは、太平洋戦争が始まる数か月前、1941年の夏でした。

戦闘機の整備兵として、中国の南京や南部の桂林などに派遣されましたが、戦況は徐々に悪化。

回顧録は、敵機の攻撃や物資の不足がうかがえる内容が多くを占めるようになります。

「僅かに残った特攻機や破損機を再利用して新たに製作する機体の準備作業は続いた。再利用は隼二型機の破損機を主体とし、方翼や尾翼を組み合わせる作業であった」
「空爆に対して我々はなすすべもなく、身に着けるのは鉄兜のみである」
「突然B24爆撃機が飛来し飛行場のサイレンがけたたましく鳴った」
「落下傘爆弾が雨霧と降り注ぐ中で、我を守り給えと必死に祈り続けた」
「近ければすぐにでも家に帰りたい一心であるがここは遠い中国の戦地でありそれも叶わぬ」

■戦後80年の今、伝えたい 回顧録を締めくくった一文

敵機の攻撃をくぐり抜け、間もなくして終戦を迎えた公一さん。

収容所生活を経て、6年ぶりに祖国の地を踏みました。

帰国の道中で体験した戦友の死、焼野原となった広島。

そして家族との再会が記されたあと、回顧録は次の一文で締めくくられます。

「この戦争で多くの尊い命が奪われ、かけがえのない大切な戦友を失ってしまった」
「もう二度と悲惨な戦争を繰り返さないように後世にこの記録を残したい」

父の思いを受け継ぎ、本をまとめた小笠原さん。

父の生きざまを振り返りながら、遺品と向き合いました。

公夫さん
「たまたま父は帰還できたから良かったわけですけど、戦友が数多く亡くなっているんですね。その人たちの分まで生きるという、そういう気持ちがあったから、戦後、暮らしていけた」
「特に今、世相が紛争であるとか、侵略であるとか後を絶ちませんよね」
「戦後80年になりまして、戦争体験を語れる人がごくわずかになってると思うんです」
「私がたまたまこの情報(父の手記)を知りえたので、これを戦争の記憶として継承していけなきゃいけないのかなというふうに強く思いますね」

♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢

父親の手記などをまとめた小笠原さんの本は、県立図書館や由利本荘市の図書館にも所蔵されています。