異例の延期となった2020東京五輪。
ニュース速報を聞きながら全国スターター研究会代表の野﨑忠信は、ある男を偲んでいた。
「佐々木先生はスターターの神様と呼ばれていましたからね。」
56年前、五輪成功を合言葉に全国から招集された400人の審判員。
そのリーダーが佐々木吉蔵(きちぞう)だった。


秋田県小坂町の貧しい家庭に育った吉蔵。
旧制大館中学(現・大館鳳鳴高校)を卒業後、進学をあきらめて地元の鉱山で働く。
転機が訪れたのは1929年の11月。
明治神宮大会の100mで優勝し東京高等師範学校(現・筑波大学)への進学が決まったのだ。
そこで吉蔵は運命の出会いを果たす。
島根県から上京してきた同学年の吉岡隆徳(たかよし)。
1932年のロサンゼルス五輪で日本人として初めて陸上100mで6位入賞を果たし、〝暁の超特急″として世界を驚かせた男だ。


吉岡の生家は島根県出雲市で1200年前から続く彌久賀神社。
おいの春日貴紘は吉岡の臨終に立ち会った一人だ。
「一直線な男。書く文字もいつも色紙からはみ出るくらいまっすぐでしたよ。」
74歳で亡くなるまで現役で100mを走り続けた吉岡。
とにかく現役であることにこだわっていた。
そのきっかけとなったのが1936年、吉蔵とともに出場したドイツ・ベルリン五輪。
前の年に10秒3の世界タイ記録を出した吉岡は優勝候補の一人と言われていた。
しかし結果は2次予選敗退。
周囲の過度な期待に押しつぶされ、実力を発揮できないまま終わってしまった。
日本へ戻る船の中、盟友・吉蔵の目の前で吉岡は意外な行動に出る。


吉蔵52歳で巡ってきた1964年の東京五輪。
スターター主任として大会に臨むことがきまっていた吉蔵には、ある大きな悩みがあった。
「審判員400人の願いは、フライングを絶対に出さないこと。それが大命題でしたね。」
吉蔵の補助役をつとめた野﨑は当時のことを振り返る。
戦後の五輪で陸上100mの決勝は1956年のメルボルン、1960年のローマと2大会連続でフライング、つまりスタートの失敗が続いていた。
日本のスターターの技術力を世界に示すためにもフライングは絶対に許されない。
しかし、陸上競技は東京五輪からそれまでの6コースから8コースにレーンが拡大され、フライングがおきやすい状態となっていた。
そこで吉蔵が考えたのが本番で使うピストルを本物の拳銃にかえること。
さらに吉蔵は野﨑に意外な指示を出した。